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脱穀の作業~その中で子どもたちがまき起こしていること~

水曜日、今年度のお米作りの最後の作業、脱穀を行いました。秋晴れのもと、子どもたちとお手伝いに来てくださった保護者の皆様と、力を合わせて作業し、無事終了しました。

今年度も、例年並みの収穫。ぽっちランチ1年分!!

ご協力ありがとうございました。

さて、脱穀だけでなく、保育活動の中で子どもたちが労働するものがあります。特にお米作りに関しては、労働という側面が強く出ます。

私たち保育者も、子どもたちが働く意味を小さいなりに理解して主体的に行動できるような環境づくりや声がけをしていきます。それは、お米作りを通して子どもたちが考えてほしいこと、体験してほしいと願うことがあるからです。

子どもたちの受け止めはそれぞれですが、その作業が好きな子もいれば、好き嫌いではなくやるべきこととして捉えている子もいるでしょう。スタッフが言っているから…と気はのらないけどやり始めるとなんだか楽しくなっていきた、とか、途中で他のこと(田んぼであれば水生生物をみつけたとか)に気持ちがいって、作業はそっちのけ、とか、もともと労働とは感じず遊び感覚でやる子、など本当にいろいろです。

大人は「脱穀」という作業だけを考えがちです。

もちろん、前述のようにこの作業を通して子どもたちに育ってほしい保育者の願いや子どもたちに体験してほしいねらいはあります。が子どもたちはそれを超えて、いろんなことを考え行動するので、想定外のことを巻き起こします。

子どもたち、その日のその場所の自然環境、大人…さまざまな要因の組み合わせで、今日この瞬間に何が起こるかは、誰にも完璧に予想することは不可能です。

脱穀の作業は、ある程度計画したとおり進んだとしても、その作業も含んだこの日のぽっちという環境で子どもたちが体験していることは、脱穀だけではありません。

具体的に、この日子どもたちがまき起こしたことを二つ紹介します。長くなります。

朝会で、スタッフがペープサートなどを駆使して、これまでのお米作りの作業を子どもたちと振り返りながら、脱穀がほぼ仕上げの作業であることとどのような作業なのかをお話しし、子どもたちは作業に気持ちを向けていざ田んぼへ。

お手伝いのお母さんたちとも協力し、脱穀機へ稲を運びます。

着々と作業が進む中、11時ごろにふとリュック置き場を見ると、風組のX君がお弁当箱を開けてトマトをお口に運んでいました。近づいていくと、だってお腹がすいたんだもん、と一生懸命うったえます。

誰かに食べたい気持ち伝えた?と聞くと、言ってないという返事。みんな、ぽっちランチで食べるお米づくりを一生懸命してるから、だまって食べ始めないで、お腹がすいて我慢できないこと伝えに行こう、といったところで別の子どもに対応しなくてはならなくなり、ちょっと離れて戻ってくると、X君はお弁当箱を抱えたままで、さらに風ぐみのY君も横でお弁当を食べ始めてようとしていました。

このこと、みんなが働いているのに自分だけお弁当を食べるなんて。我慢してほしい。と考えがちです。

が、ぽっちでは、まず食べたい気持ちを受け止めます。そして、今日はみんなで一つの作業で力を合わすことが一つのねらいなので、みんなに食べたい気持ちを伝えることを提案します。

勝手に食べることは避けるよう、試みます。

ここで、大切なのは、風ぐみだということです。

まず自分をそのまんま受け入れてくれる、自分の気持ちを受け止めてくれる体験をたくさんして、なんとなく自分は愛されている、認められているという感覚が育って初めて、次の段階として他者の気持ちを考えたり、自分の気持ちを抑え他者との関係や集団の中で求められている役割を優先できる社会性、道徳性が育ちます。風ぐみさんはまだ自分中心の年齢です。ぽっちで縦割りの関係で過ごしているので、徐々に社会性や道徳性も育ちつつあるかもしれませんが、その時々の都合でまだ自分の体や心の都合が優先される年です。

ここで、大人が強く主張して作業に戻すこともできますが、それはX君やY君の育ちにとって今必要なことではありません。

彼らが、空ぐみ、おひさまぐみになった時には、同じような行動はしません。

今年は、それでいいのです。

彼らが、働いている子たちに「お腹すいちゃってがまんできない」と伝えたら、どう答えるか、想像できます。風ぐみさん、ということを理解して、声をかけるでしょう。そして、二人とも、お弁当を食べ満足したら作業に合流していると思います。

でも、もしかして「先に食べるなんてもってのほか、ちゃんとやって」と言われることがあったとしても、それはそれでまたお互いに自分の気持ちに向き合うので、貴重な一つの経験です。

X君、Y君は、この経験を通じて何を得るでしょう。

大きい子たちは、何を経験するでしょう。

組んであるはぜ棒を解体し、子どもたちが収納場所に運んでいる時に、Wちゃんの持っていた棒が耳元に当たったと言って、Z君がWちゃんに抗議しました。Wちゃんは無言で無表情。Z君は謝ってほしいと強い口調でいいます。Wちゃんは口をつぐんだままです。

Z君は語気がどんどん強くなっています。

「もうすごく怒ってるんだから、一回のごめんじゃ許せない」とまで言い出しました。

Wちゃんはそばにいたスタッフに抱きつき顔をうずめ、小さな声で「言えない」「言いたくない」とスタッフに伝えます。

Z君の声を聞きつけ、V君、Uちゃんが寄ってきました。しばらくやりとりを静観しています。

そして、Z君が「どうしてごめんって言ってくれないの?」とWちゃんに聞いたところで、V君、Uちゃんにも、スタッフから聞いてみました。

「Wちゃんはどうしてごめんって言わないんだろうね」

「はずかしいんじゃない?」

「私は、ごめんっていうよ」

「ぼくは、虹ぐみのときは言えなかったけど今は言えるよ」

「私は、虹ぐみの時も言えたよ」

そこでZ君も「ぼくもごめんっていうよ」

Wちゃんは聞いていますが、黙っています。

そんなやりとりで時間が過ぎ、Z君だけがごめんって言ってと言い続けているときに

ぽつりとV君が「でも、Z君の耳、血出てないし、何もなってないよ」

と言いました。

Z君は「何もなってないけど、ごめんって言ってくれないから怒る気持ちが大きくなるんだよ」

しばらく沈黙

唐突にZ君が「もうごめんって言ってくれないから、あっちで楽しそうに遊んでいる(切った藁を田んぼに撒いている作業になっていました)方に行く!」と宣言して田んぼの方に駆けていき、その後をV君も追いました。

残ったUちゃんは、やさしく虹の歌をうたいはじめました。

「庭のシャベルが~、一日濡れて~🎵」

スタッフも一緒に歌いました。

それで、このことはピリオド。

Wちゃんがごめんって言えなかったわけはわかりません。でも、言わないことをそのまんま受け止められた経験、Wちゃんばかりに向いているベクトルをZ君の方に絶妙なタイミングでむけたV君、言葉でなく歌でWちゃんに何かを伝えたかったUちゃんの気持ち、そのようなことに触れる経験が、ぽっちで毎日のようにあれば、大人が無理やりごめんねと言わせることより遥かに尊いもの(ことばにできませんが)が、Wちゃんの中に育つのではないかなと思っています。いつか同じようなことがあった時、自らごめんねと言っているWちゃんが想像できます。

一方、ごめんねを言ってほしいとこだわり続けたZ君は、自分でもういいやと気持ちを切り替えました。このこともZ君にとって意味のある経験です。

このような経験は、どの子もしています。

①、②ともに

許す、許される、認める、認められる、

気持ちを伝える、受け止めるという、

ともすれば大人になってもなかなかできない、自分も他者も好きになる原点を、ちゃんとやっているのです。

子どもたちは一つ一つの様々なできごとを心で一生懸命受け止めながら、栄養に変えていて、風ぐみ、空ぐみ、おひさまぐみと成長する中で、深い理解へと育て、それを行動に表していきます。

私たちは、子どもの経験を栄養に変える力を信じて、その力が発揮されるのを邪魔しないことが大切だと考えています。

できる限り、そうしたいと思います。

(危険が伴う行為や、大きな迷惑になる、など時と場合により、できないことももちろんあります)



最後に

厚生労働省が策定している保育所保育指針(H30年改訂)の解説書の中にある言葉を紹介しますね。


「大切なことは時間をかけて醸成されていく」